抹茶みるく日記

感想や日々の雑考のブログです。感想は作品の評価より、自分の思考を深め、得るものがあるかどうかを重視しています。

NARUTO・本当の平和とは何か

私は子供の頃から「本当の平和って何だろう?」と考えていたのですが、大人になってNARUTOを読んでから、ますます考えることが多くなりました。
現実に各地で紛争が起こっていて、ヘタをすると地域紛争が引き金になり、「第三次世界大戦」が勃発する可能性があります。
第二次世界大戦の時よりも、核保有国が増えていますから、本当に地球が放射能で汚染されてしまう可能性もあります。
 
なぜ争いが無くならないんでしょうかね……。

NARUTOの感想サイトや、動画サイトのコメントを読んでいると、様々な考えが交錯しています。

残念ながら、それらを見た私の感想は、「これじゃあ、当分戦争は無くならないな」です。

622話〜623話(コミック巻ノ65)で、まだ里システムが無い戦国時代に生きた柱間とマダラが、子供が死ななくてすむ集落を作ろうと望む話があります。
ちょうど2014年7月3日と7月10日に、アニメ版でもその部分を放送していました。

感想サイトや動画サイトのコメントを見ると、「懲罰を与える」とか「死んだ者や遺族の気持ちはどうなる」みたいな意見をみますが、これはまさに板間や扉間、イズナと同じ考え方です。

人間は感情がありますから、彼等のように考えてしまうのは当然だと思います。
しかしそれを免罪符のように振りかざして、「人を殺したんだから、お前が死ぬのは当然でしょ」みたいな話を正当化するのは、間違っていると思います。
いつまでもそこに留まっていては、永遠に堂々巡りで、憎しみの連鎖から逃れられません。

「オビトはあれだけ酷いことをしたのに、なぜナルトもサクラもオビトに怒らないのか」という趣旨のコメントも見ます。

その答えはすでに出ていると、私は思います。

柱間もマダラも兄弟を殺され続けて、相当なショックと悲しみを味わってきているはずです。
でも彼等は、扉間やイズナのようには考えていません。
殺された者の無念も、残された者達の悲しみも憎しみも、いやというほどわかっている。
それでもそこに留まっていてはダメなんだと、より高い見地に立ってどうすればよいか、彼等は考え始めています。

戦争が無い平和な世界を作る最初の一歩は、「憎しみの連鎖を断ち切ること」です。
これが最も難しい。
理屈では割り切れない人間の感情と、どう向き合うのか、どう折り合いを付けていくのかという問題になるからです。

でも子供の頃を思い出して下さい。
子供は分別よりも感情で動きます。
自分の感情を律しきれないので、すぐに泣いたりわめいたりします。幼い子供は視点も自己中心です。他人の感情なんか、まず考慮していません。

成長すると共に学習して、自分の感情をコントロールする術(すべ)を身に付けていきます。
同時に、自分と同じく他人にも感情があることを知り、一方的な自分だけの見方から、他者の立場に身を置いて、世界を見られるようになっていきます。

最近のストーカー行為をする人々は、この部分の成長が遅れているか、あるいは学んでこなかった人達といえるのではないでしょうか。
いい年をした大人なのに、ストーカー行為から殺人事件に発展してしまいます。昨今では、未成熟な大人が増えているのは、間違いないと思います。

しかし長い目で見れば、人類は確実に進歩していると思うのです。
人の一生に例えると、子供から大人へ成長していくように、人類も長い時を重ねて、脱皮していくプロセスの途上にいるのではないでしょうか。
私は、人類はそれほどバカではないと信じます。

次に大事なのは、「自分と違う価値観を否定しない」ことです。

622話~623話(コミック巻ノ65)で柱間が言っているように、柱間とマダラは性格も違うし、全てが同じ考えだったわけではありません。
現実世界でも、自分と全く同じ考え方や価値観の人間は存在しません。そんなコピーみたいな人間がいるはずはないのです。
どんなに仲の良い友達でも、違和感を感じる瞬間は必ずあります。
その時にどうするかです。

私の答えは「『拒否』はするけれど、『否定』はしない」です。

人には拒否する権利があります。これは大事なことです。

たとえば「映画を見に行かないか」と誘われても、今日は家で本を読んだり、ゲームをするなど、一人で過ごしたい時があったとします。
気が乗れば付き合えばいいし、乗らなかったら断ればいい。
いつも相手に合わせていると、その内に限界がきて、関係が破綻してしまいます。
逆に自分から誘って断られたら、「相手にも拒否する権利がある」と思って受け入れることです。

「拒否」と「否定」は違います。このところを、きちっと自分の中で整理しておかないといけません。
この場合の「否定」は、「映画なんか見る奴はバカだ」とか「くだらない」とか、映画を見ることそのものにダメ出しすることです。
逆に断られた場合は、「本なんか読んでどーするんだ」とか「一人でゲームする奴はアホだ」とか言い出すことです。

青色が好きな人がいたっていい、赤色が好きな人がいたっていい、どちらも間違っていない。
キリスト教を信じてもいいし、仏教でも、イスラム教でもいい。
「青が好きなんて、間違ってる」とか、「イスラム教を信じるなんて、おかしい」とか、相手が持っている価値観そのものを、否定することが間違っているのです。

私は本当の平和を手に入れるには、多様な価値観を受け入れて、共栄共存する、成熟した社会を実現する必要があると思っています。

最終的にNARUTOがどこへ向うか、作者の価値観次第でしょう。
私は作品から自分が何を考えるか、思考が刺激されてどう広がっていくかに価値を見いだしているので、ストーリー展開がどうだとか、設定がどうだとかは、正直あまり問題にしていません。
NARUTOに対するコメントを見ていると、自分の思惑や、「こういう作品はこうあるべき」みたいな思い込みがあって、その通りにストーリーが展開していかないことや、キャラクターが動かないことに、不満を抱いているのを感じるときがあります。
そう思うのもその人の価値観ですから、「否定」はしません。
しかし自分の価値観に囚われずに、「ああ、こんな見方もあるんだな」「こんな捉え方や、考え方もあるんだな」と、自分の視野を広げていった方が、何倍も世の中を楽しめるし、シアワセではないかと思うのです。

ネットの炎上も、自分の価値観以外を「否定」する心から、始まっていると思います。

NARUTOを丹念に読んでいると、色々なことを考えさせてくれるので、私にとっては楽しみであり、ささやかな幸せなのです。